2012-12-17

衆院選についての感想などなど

どもです。

2012/12/16の衆院選。

2012/12/17 02:11時点でのNHKでの報道では、
自民:293
民主:56
公明:30
維新:51
共産:8
みんな:18
社民:2

てな感じ。

まあ、テレビの報道で当選した自民の候補者が口々に言っていた
「自民に風が吹いたわけじゃなく、民主にとって大逆風だった」
ってのはその通りでしょうな。
だって、悪く言えば消去法で行ったら自民しか残ってない訳だし。

個人的には、今回の選挙が菅さんや鳩山さんが総理だった時じゃなくってよかったと思いますよ。
もし、その時だったら、もっと負けてたと思う。

維新は…基盤と各候補の知名度がイマイチだったのが災いしたかな〜。
あとは、まあ、マスコミのネガキャンかね。

テレビも新聞も日頃、竹島や尖閣諸島についてあれだけ報道しておきながら、国防軍の文字が出た途端、「戦争反対」に絡めての話し。

でも、それを言うなら代替発電について何のビジョンも無いままに「脱原発」「原発停止」を言うのもおかしいはずなのに、「それが争点」とばかりにその点でどうなのかを問うと言うのはそれこそおかしくは無いだろうか?

投票率は、日経によると59.21%前後らしい前回(2009年)が69.28%。
前回の民主党への期待感から大きかったんだろうけど、目に見える争点が無い上に、「…あーあ。結局、自民かぁ」みたいな半ば諦め感が作用したのかも知れない。
(雨降っていたら、もっと悪かったろうね。)

まあ、何がどうであっても、これで決まりました。

前回の選挙で、変わることを望んで投票した結果については、有権者として期待通りだったのか否かは個人個人で違うと思いますが、少なくとも、
「我々は選択した」
ということを覚えておかなければならないと思います。

でも、不満があればぶつけても良いと思いますよ。
その為の「私たちの代表」としての国会議員なんだから。



P.S.
同日行われた、東京都知事選挙。
おそらくは大方の予想通りの猪瀬直樹氏の圧勝(3,818,268票(得票率:67.6%))ってホントに圧勝すぎる。
副知事としての行動力と実績は都民皆んなが知る所。だから、個人的にも全然心配してませんでした。



てな訳で、衆院選についての感想などなどでした。

では〜。

2012-12-16

「アメリカに対する神の希望」 (1973/10/21 ワシントン)より

どもです。

今回はクリスマスも近いってことで、「アメリカに対する神の希望」(1973/10/21 ワシントン)からイエス・キリストに関する部分の抜粋をお送りいたします。


 マリヤは結婚する前にイエスをはらみました。ユダヤの法律では、そのような女は石打ちの刑によって死ぬ運命にありました。ヨセフはマリヤのことで憤りを感じ、彼女と離婚する適当な時をひそかに待っていたのでした。その時天使がヨセフに現れ、彼にこう言ったのです。「マリヤを妻としてめとりなさい。彼女を責めてはいけません。彼女は神の特別な使命をもっているからです。」もし、ヨセフが全き人でなかったらマリヤは必然的に石打ちによって死に追いやられていたでしょう。
 さて、皆さんはヨセフがこのことを両親に向かって、「お父さん、お母さん、私の妻となる人、私の婚約者は妊娠しました。しかし、天使がこれは神の意志によるものであると言いましたから、私は彼女を妻とし、彼女の面倒をみなければなりません。」などと相談できたと考えますか?ヨセフの両親は何と言ったでしょう?この中には年配の御夫婦がおられます。ヨセフの両親の立場になって考えてみてください。ヨセフがそのようなことを言っても信じようとはしないでしょう。ここでヨセフは孤独な決定をしなければならなかったのです。誰にも相談することなく、彼は婚約者をある秘密の場所に連れて行ったのです。
 私はヨセフがマリヤに対して大きな疑いを持つような極めて苦しい時を通過したということを確信しています。ヨセフは妻となるべき人にこう聞いたに違いありません。「マリヤ、私たちは心が通じ合っているのだからお互いに秘密は持っていないはずだ。何が本当にあったか私に話してくれるね。お前のおなかの子の本当の父親は誰なのか?」。どんな夫もこのことに関してはとても知りたがるものなのです。しかし、マリヤが夫に対して、「この子供の父親が誰であるのかは私は本当に知らないのです。私は神によって妊娠したからです」と彼女は真実を言ったのです。何人の人が彼女の言葉を信ずることができるでしょう。
 今、信ずることはより簡単です。私たちはイエスが誰であるかを知っているからです。しかし、これはイエスが生まれてからの問題ではありませんでした。それ以前の問題なのです。
 ですから、ヨセフは確実に疑いをもち心に傷ついた心情を持っていたのです。彼は”私の妻は真実をいっていない”と考えました。このような状態から、彼が生まれる以前からイエスの家庭には感情的な食い違いや動揺があったのです。
 こうした事実に良い証の場面があります。ある日、イエスがカナで結婚の祝があった時、そこで母親に会いました。マリヤはイエスに「ブドウ酒がなくなった」と言いました。彼は母親に向かってこう言ったのです。「婦人よ、あなたはわたしとなんの係わりがありますか」(ヨハネ 2.4)重要なことは、彼がお母さんと言わずに「婦人よ」と言ったことです。のちにイエスの弟子の一人が彼の所にやって来て、「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたに会いに来ておられます」と言うのを聞いて「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか。………ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マルコ 3.33 〜 35)と言っています。これは、イエスの目からは、彼の家族が神のみ旨を行なっていないということを示しているのです。
 イエスは彼の家族に対して非常に大きな憤りを感じていたのでした。まだ明かされない多くの隠された話があります。彼の怒りの事実の多くがまだ知られていません。聖書はイエスの公生涯前の三十年はほとんど記録されていないのです。もしこれが栄光ある記録でしたら、神やイエスの弟子たちがそれを表したことでしょう。しかし、イエスは嘆きと悲しみのうちに生きたのです。すなわち彼は三十年の目立たない存在であったのです。だから人々は彼が、「私は律法を成就するためにやってきた。モーセは私について書いているのである」と言うのを聞いて、ある日突然、ショックを受けたのです。彼はこう言いました。「私は神の息子であり、天の父が私を送られたのである」「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」。その時代に私たちが生きていたとして、ここにいる何人がそのような途方もない言葉を信じることが出来たでしょう。イエスは人々を困惑させました。彼はそんなにもけたはずれであったのです。洗礼ヨハネでさえ、イエスを神の息子として見ることは難しかったのです。そしてヨハネは人々の心を準備させ、主の道をまっすぐにするため来るはずでした。
 今日、イエス・キリストを神の息子として受け入れることは非常に簡単なことです。なぜなら二000年の間、キリスト教は彼を神としてたたえてきたからです。しかし、その当時は年上の者たちは彼を受け入れず、また祭司たちも彼を受け入れなかったのです。彼らは、今日の我々に勝るとも劣らないほどインテリでありました。事実、我々がもしナザレのイエスの時代に生きていたら、多分彼ら以上の過ちを犯したかも知れません。彼らは単に、見捨てられた、不敬な、無法な異端者を見たにすぎないのです。彼らは率直に神の息子を見ることができなかったのです。
 イエスは、長い間待ち望まれてきました。メシヤは二000年の間、その到来を待たれてきたのであります。しかし彼がついに現れた時、彼を受け入れることができなかったのです、ユダヤ人のその当時の信仰が力なかったのではありません。今日のクリスチャンの信仰に劣らず献身的でありました。しかし、我々は、イエスが関係を持った人たちは意外な売春婦、取税人そして、漁夫たちであったということを知っています。
 我々は、ある日若い女が高価な香油をイエスの体に注ぎ、彼女の髪の毛で足を洗った話を知っています。もし、私たちがこれらのことを見たとしたら、皆さんのうちの何人が敬虔にイエスを神の息子として受け入れると言うのでしょうか。
 イエスの三年の公生涯は待ち望まれたメシヤの立場からは程遠い叫びでした。誰一人としてキリストの真の使命を理解することができなかったのであります。人々は彼らの地上の基準で、神の息子を罪深い目でもって裁いたのであります。彼らはイエスを自分たちの思うままに取り扱いました。この罪の世界はキリストの清さには決して相いれられません。彼は人々に近づきました。しかし、人々は彼を受け入れなかったのです。
 既に申し上げましたように歴史上のすべての聖人、義人はまず第一に完全なる自己否定をし、神に自分を捧げました。神が彼らを呼び集められた時、彼らは自分の家や財産、家族、また国までも捨てました。神は神の闘士を個人的な立場において、また家庭的、民族的、国家的、世界的な立場において必要としました。そしてどの立場においても、神の闘士の資格は常に同じでありました。神はどのような使命が下されてもついていくことのできる、完全なる疲れを知らない信仰者を要求しているのです。神は神のみ旨に完全に服従することを要求しています。
 それでは、我々は神のみ旨とは何であるかを調べてみなくてはなりません。なぜ神は人間にそのような困難な時を与えるのでしょう。個人的な救いは確かに、神の側においては重要なことです。神はそれをないがしろにはされません。しかしながらそれが神のなされる仕事の最終的な目的ではないのです。神は世界の救いのために、一つの家庭をその手段として呼ばれました。神は世界の救いを完成するため、人々を呼び集められるのです。神は世界救済の最終的な成就のために、神の闘士として一つの国を必要としています。
 イエスの時代の人々はメシヤの到来を切望していました。しかし彼らはイスラエルとして、神の選民として、彼らの国家的栄光のみを考えていました。彼らはイエス・キリストの世界的な使命を理解していませんでした。メシヤを選民に送るのは神の目的でありました。そしてメシヤは選民と一つになるのでした。そして彼らは信仰を持つ戦士となり、世界の救いのために戦い、成就するのです。



ふぅぃーーーー。
実は、この「アメリカに対する神の希望」 の前に「人間に対する神の希望」と言うのもあるんですが、それはまた別の機会に…。

まあ、世間的は「クリスマス = 目出度い」イメージが強いんですが。
その神のひとり子が何故、馬小屋で生まれて、そして、誰からも迫害されながら死んで行かなければならなかったのか、を考えて見てもいいんじゃないでしょうか。

因みに、キリスト教の公式見解では、「十字架上で死ぬことで、この世の罪を贖ってくださった。」と言う事なんですが、これについては文先生はハッキリ「なら生まれた時に死んでいればいいんじゃないか。なぜわざわざ十字架上で死なくても良いだろう」みたいなことを他の御言葉内で語られてますね。


てな訳で、またお会いしましょう。

では〜。

2012-12-04

「一心不乱 一生懸命」 (1973/07/08 東京)

どもです。

久しぶりの御言葉です。今回は、1973年に東京教会での御言葉「一心不乱 一生懸命」です。


 日本が危ない

 世界的に恐ろしい軍隊があるとしたら、恐ろしいほど訓練された軍隊である。素晴らしい軍隊があるとしたら、素晴らしいほど訓練された軍隊である。それ以外にはない。例外はない。実践には例外がない。奇跡ということは例外の例外であって、それは、一時あった場合には千年の穴があく。我々はそれを知っている。
 訓練が必要である。でたらめな訓練ではない。計画的であり、科学的であり、理論的であり、実践的な計画の訓練が必要である。
 先生が好きなのは、「一心不乱 一生懸命」である。一生懸命、一心不乱に目的に向かって進んだ場合にはどうなるであろう。だから、実践の現場を迎え合った全世界の宗教のうちで、何が宗教界を代表したダビデの任務を果たし得るや。こう考えてみた場合に、いくら考えてみても統一食口以外にないということを、先生はようやく結論するに至りました。もしも神様がいたとするならば、それは先生が考えたそれを、認めざるを得ないでありましょう。
 先生においては、残してきた子供たちから手紙が来る。思いがあったら、わざと切ってしまう。それで今回帰って来る飛行機の中で、初めて済まない心情を清算してきた。七ヶ月と二十日近いこの期間すまなかった。しかし、仕方ない。子供たちに対していろいろな手紙を、お母様が涙しながら出す時、先生は、「その涙は神に対してで、子供のために流してはいけない」と何回も言っている。会いたいことはお母様も先生も同じ思いである。だからできるだけ写真も見なかった。真を尽くさなければならない。
 先生が言ったことを君たちがやってくれると思ったのに、半年たって、この間の報告を聞いてがっかりした。これではいけない。作戦を変えなければならないし、方向を転換しなければならない緊急事態に入った。再び決意を固めなければならない。目的に向かって突進するような道を満たさなければ日本は危ないのである。先生が言ったとおりの情勢になった。アジア情勢になった。時間がたつごとに、遅くなってしまう。だから準備をなさない者には勝利は得られないじゃないか。準備をなすために七二年から七三、七四年までに五万人以上の基準を必ず突破しなければならない。
 先生は皆さんに負けない。今も闘っている。先生は今、四十年の闘いの路程を歩んでいる。先生は三十代まで準備時代、四十代まで実践時代、六十までに完成したいと、ちゃんと原理的に組んでいる。一九七七年から一九七八年まで、アメリカに影響する最高の絶頂期と決めている。一人でも行く。君たちが休んでも行く。援助しなくても行く。
 今まで一月に一人伝道してきた者、手を挙げて。−−−−一人もいない。失敗だよ。摂理は人が滅びても、国が滅びても、摂理は残さなければならない。残すために今まで神は働きかけている。一点の家庭基準を、氏族基準を我々は抱えて、先生がそれを保って働きかけている。真剣な問題である。だから一時間が惜しい。この一時間を努力しなかったならば、数千年が飛んでしまう悲惨な運命が生まれてくる。この一時間、この一瞬が危機に瀬している。
 涙ながらに神の摂理に近寄って、神の悲惨なその姿を思ってみた場合に、我々に対して信頼できない神の立場はどんなものであろうか。統一教会が信頼できなかったら、神は救いを受けることができない。もうおしまいである。それを君たちがいいかげんに考えて、こうでもいいし、ああでもいいと適当なやり方をこれを妨げることがあったとしたら先生は相手にしない。黙っていればいかにたやすいことだろう。しかし、そうはいかない。果たすべき使命を残している以上は、それを果たすために、嫌と言っても、転んでしまっても、落ちてしまっても仕方がない。正義に立って、正当なことを教えて、命令するのが善の指導者であって、天的指導者としての使命だから仕方がない。

 

先生は二時間しか休まない

 先生はアメリカで平均二時間しか眠らなかった。十二時にみんなを寝かして、それから三時半、四時半まで勉強した。時間がないから寝ない。疲れる暇がない。七年間は寝なかった。みんなは何時間寝るのだ?六時間寝るのだったら、そのうちの二時間は先生にのために費やせ。神のために費やせ。神はそういうところに近づいてくる。余った余分な力でやっても何の効果もありません。誰でもそれはやる。何の条件にもならない。だからこれからは実力と実行力をもたない指導者は消えていくよ。邪魔になる。
 原理には三大裁きがある。真理、人格、心情において裁く。堕落は三大要件を犯したんだから。先生は成して、あんたたちに教えているんだよ。復帰の道は成して教えるべきであって、成さないで教えるべきであったら、聖書は六〇〇〇年前にもう既にやってきているよ。なぜか?原則がある。父母の信仰が立たないから、父母が先に知らなかったから、知るのも父母が先に知らなければならない。父母が先に実行できなかったから、実行するのも父母が先に実行してからこそ、知るようになるのが原則である。だから、原理は先生から、もう成した基準に立っていないと教えられない。
 だから、あなたたちは、原理をパスしなければならない。原理をパスして、原理基準に引っかからないような自分となって、それから実体者となって、原理に適用される。しかし、蕩減原則に適用されるそういう者があった場合には、実体復帰はなされません。そういう条件が残った場合には、サタンがいつも私のものだと引っ張っていく。だから実体基準を勝利するには、サタンを正面的に抱えてやれ。

と言う訳ですが、まあ、冒頭の「世界的に恐ろしい軍隊があるとしたら、恐ろしいほど訓練された軍隊である。」には初めて読んだ人は度肝を抜かすんじゃないかと思います。
この後に「5万人云々」とあるように、この時は摂理的に非常に重要な時期だったようです、この期間の5万人伝道勝利が成されていれば、日本のみならず世界的に摂理が進んだんはずだという事は、この中で先生が「がっかりした」という部分で分かると思います。

翻って、来年に紀元節を控えている我々の状況は、この時と同じなんじゃないかとキーを打ちながら思いました。そして、この時は、まだ猶予がありましたが、今の状況は”待ったなし”。大変です。

しかし、「三十代まで準備時代、四十代まで実践時代、六十までに完成したいと…」を読むと、今年聖和させてしまった我々の責任はやっぱり重いと思わざるを得ません。

はぁ。

がんばりまっしょい!

では〜。



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