2012-12-16

「アメリカに対する神の希望」 (1973/10/21 ワシントン)より

どもです。

今回はクリスマスも近いってことで、「アメリカに対する神の希望」(1973/10/21 ワシントン)からイエス・キリストに関する部分の抜粋をお送りいたします。


 マリヤは結婚する前にイエスをはらみました。ユダヤの法律では、そのような女は石打ちの刑によって死ぬ運命にありました。ヨセフはマリヤのことで憤りを感じ、彼女と離婚する適当な時をひそかに待っていたのでした。その時天使がヨセフに現れ、彼にこう言ったのです。「マリヤを妻としてめとりなさい。彼女を責めてはいけません。彼女は神の特別な使命をもっているからです。」もし、ヨセフが全き人でなかったらマリヤは必然的に石打ちによって死に追いやられていたでしょう。
 さて、皆さんはヨセフがこのことを両親に向かって、「お父さん、お母さん、私の妻となる人、私の婚約者は妊娠しました。しかし、天使がこれは神の意志によるものであると言いましたから、私は彼女を妻とし、彼女の面倒をみなければなりません。」などと相談できたと考えますか?ヨセフの両親は何と言ったでしょう?この中には年配の御夫婦がおられます。ヨセフの両親の立場になって考えてみてください。ヨセフがそのようなことを言っても信じようとはしないでしょう。ここでヨセフは孤独な決定をしなければならなかったのです。誰にも相談することなく、彼は婚約者をある秘密の場所に連れて行ったのです。
 私はヨセフがマリヤに対して大きな疑いを持つような極めて苦しい時を通過したということを確信しています。ヨセフは妻となるべき人にこう聞いたに違いありません。「マリヤ、私たちは心が通じ合っているのだからお互いに秘密は持っていないはずだ。何が本当にあったか私に話してくれるね。お前のおなかの子の本当の父親は誰なのか?」。どんな夫もこのことに関してはとても知りたがるものなのです。しかし、マリヤが夫に対して、「この子供の父親が誰であるのかは私は本当に知らないのです。私は神によって妊娠したからです」と彼女は真実を言ったのです。何人の人が彼女の言葉を信ずることができるでしょう。
 今、信ずることはより簡単です。私たちはイエスが誰であるかを知っているからです。しかし、これはイエスが生まれてからの問題ではありませんでした。それ以前の問題なのです。
 ですから、ヨセフは確実に疑いをもち心に傷ついた心情を持っていたのです。彼は”私の妻は真実をいっていない”と考えました。このような状態から、彼が生まれる以前からイエスの家庭には感情的な食い違いや動揺があったのです。
 こうした事実に良い証の場面があります。ある日、イエスがカナで結婚の祝があった時、そこで母親に会いました。マリヤはイエスに「ブドウ酒がなくなった」と言いました。彼は母親に向かってこう言ったのです。「婦人よ、あなたはわたしとなんの係わりがありますか」(ヨハネ 2.4)重要なことは、彼がお母さんと言わずに「婦人よ」と言ったことです。のちにイエスの弟子の一人が彼の所にやって来て、「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたに会いに来ておられます」と言うのを聞いて「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか。………ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マルコ 3.33 〜 35)と言っています。これは、イエスの目からは、彼の家族が神のみ旨を行なっていないということを示しているのです。
 イエスは彼の家族に対して非常に大きな憤りを感じていたのでした。まだ明かされない多くの隠された話があります。彼の怒りの事実の多くがまだ知られていません。聖書はイエスの公生涯前の三十年はほとんど記録されていないのです。もしこれが栄光ある記録でしたら、神やイエスの弟子たちがそれを表したことでしょう。しかし、イエスは嘆きと悲しみのうちに生きたのです。すなわち彼は三十年の目立たない存在であったのです。だから人々は彼が、「私は律法を成就するためにやってきた。モーセは私について書いているのである」と言うのを聞いて、ある日突然、ショックを受けたのです。彼はこう言いました。「私は神の息子であり、天の父が私を送られたのである」「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」。その時代に私たちが生きていたとして、ここにいる何人がそのような途方もない言葉を信じることが出来たでしょう。イエスは人々を困惑させました。彼はそんなにもけたはずれであったのです。洗礼ヨハネでさえ、イエスを神の息子として見ることは難しかったのです。そしてヨハネは人々の心を準備させ、主の道をまっすぐにするため来るはずでした。
 今日、イエス・キリストを神の息子として受け入れることは非常に簡単なことです。なぜなら二000年の間、キリスト教は彼を神としてたたえてきたからです。しかし、その当時は年上の者たちは彼を受け入れず、また祭司たちも彼を受け入れなかったのです。彼らは、今日の我々に勝るとも劣らないほどインテリでありました。事実、我々がもしナザレのイエスの時代に生きていたら、多分彼ら以上の過ちを犯したかも知れません。彼らは単に、見捨てられた、不敬な、無法な異端者を見たにすぎないのです。彼らは率直に神の息子を見ることができなかったのです。
 イエスは、長い間待ち望まれてきました。メシヤは二000年の間、その到来を待たれてきたのであります。しかし彼がついに現れた時、彼を受け入れることができなかったのです、ユダヤ人のその当時の信仰が力なかったのではありません。今日のクリスチャンの信仰に劣らず献身的でありました。しかし、我々は、イエスが関係を持った人たちは意外な売春婦、取税人そして、漁夫たちであったということを知っています。
 我々は、ある日若い女が高価な香油をイエスの体に注ぎ、彼女の髪の毛で足を洗った話を知っています。もし、私たちがこれらのことを見たとしたら、皆さんのうちの何人が敬虔にイエスを神の息子として受け入れると言うのでしょうか。
 イエスの三年の公生涯は待ち望まれたメシヤの立場からは程遠い叫びでした。誰一人としてキリストの真の使命を理解することができなかったのであります。人々は彼らの地上の基準で、神の息子を罪深い目でもって裁いたのであります。彼らはイエスを自分たちの思うままに取り扱いました。この罪の世界はキリストの清さには決して相いれられません。彼は人々に近づきました。しかし、人々は彼を受け入れなかったのです。
 既に申し上げましたように歴史上のすべての聖人、義人はまず第一に完全なる自己否定をし、神に自分を捧げました。神が彼らを呼び集められた時、彼らは自分の家や財産、家族、また国までも捨てました。神は神の闘士を個人的な立場において、また家庭的、民族的、国家的、世界的な立場において必要としました。そしてどの立場においても、神の闘士の資格は常に同じでありました。神はどのような使命が下されてもついていくことのできる、完全なる疲れを知らない信仰者を要求しているのです。神は神のみ旨に完全に服従することを要求しています。
 それでは、我々は神のみ旨とは何であるかを調べてみなくてはなりません。なぜ神は人間にそのような困難な時を与えるのでしょう。個人的な救いは確かに、神の側においては重要なことです。神はそれをないがしろにはされません。しかしながらそれが神のなされる仕事の最終的な目的ではないのです。神は世界の救いのために、一つの家庭をその手段として呼ばれました。神は世界の救いを完成するため、人々を呼び集められるのです。神は世界救済の最終的な成就のために、神の闘士として一つの国を必要としています。
 イエスの時代の人々はメシヤの到来を切望していました。しかし彼らはイスラエルとして、神の選民として、彼らの国家的栄光のみを考えていました。彼らはイエス・キリストの世界的な使命を理解していませんでした。メシヤを選民に送るのは神の目的でありました。そしてメシヤは選民と一つになるのでした。そして彼らは信仰を持つ戦士となり、世界の救いのために戦い、成就するのです。



ふぅぃーーーー。
実は、この「アメリカに対する神の希望」 の前に「人間に対する神の希望」と言うのもあるんですが、それはまた別の機会に…。

まあ、世間的は「クリスマス = 目出度い」イメージが強いんですが。
その神のひとり子が何故、馬小屋で生まれて、そして、誰からも迫害されながら死んで行かなければならなかったのか、を考えて見てもいいんじゃないでしょうか。

因みに、キリスト教の公式見解では、「十字架上で死ぬことで、この世の罪を贖ってくださった。」と言う事なんですが、これについては文先生はハッキリ「なら生まれた時に死んでいればいいんじゃないか。なぜわざわざ十字架上で死なくても良いだろう」みたいなことを他の御言葉内で語られてますね。


てな訳で、またお会いしましょう。

では〜。

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