2012-10-30

「我々はなぜ苦労しなければならないか」(1972/09/11 韓国 水沢理)

どもです。
ちょっと、ペースが落ちてきた。
今日は、「御旨と世界」の「我々はなぜ苦労しなければならないか」からです。

不平不満は許されない
 神は、我々人間になぜ服従を要求するのか。それは神自体が喜ぶためではない。我々人間を喜ばせるためである。神の理想相対圏に立たせて、再創造の目的を完成させることによって、堕落した要因を逆に押しのけて、乗り越える立場でなければならない。堕落はそもそも服従しないところから始まったのだから、それをもとがえすためには、絶対必要な要件として、「絶対服従せよ」と命令せざるをを得ません。だから宗教においては文句を言えません。弁明が言えません。絶対服従である。こういう結論になります。
 絶対服従、それは苦労である。苦労の目的は、結局神の創造本然の一から、完成される立場にまで立った条件として認められる。だから苦労を、犠牲をしていけば、我々は完成圏に立つ。それ以外に道がないからその道を満たし、宗教は相応した苦労の道を強調せざるを得ない、ということを理論的に整理しておかなければならない。堕落の道を乗り越えるには、絶対服従の道以外にない。だから神は、仕方なしにこの道を求めざるを得ない。
 復帰の道においては、不平不満は絶対禁物である、許されない。絶対犠牲なる道で、泣き泣き行くとしたらどうなるか。絶対服従しながらも希望に満ちて喜んで行かなければならない。なぜ、そういう道を行かなければならないか?それは再創造の道であるから、希望の道を今行きつつある立場だから、喜ばざるを得ない。信仰の道は落胆を感じながら行く道ではありません。だから犠牲と苦労は、すべてを授ける器になるというんだね。
 だから宗教の中で、歴史が愛する宗教は何かと見た場合、命を捧げきって、歴史過程を通過した宗教は、世界のすべてを愛することができる。キリスト教は殉教の宗教である。血を流して、世界に発展してきた宗教である。だからキリスト教は、宗教を中心として見た場合、神の前に一番の親孝行をした立場にある。だから、神様がいれば、キリスト教を中心として、世界が始まらなければならないという結論になる。だから、愛の心をもって、いかに長い間犠牲しながらやっていくか、とうことが自分の勝敗を決める内容になってくる。
 しかし、本当の親である神であるならば、神がそういう苦労を子供にさせて喜ぶ立場であろうか、つらい立場であろうか?その世の堕落した親子関係から考えてみた場合にも、自分の子供に苦労させたい親は、絶対一人もいません。しかし、神はなぜ、こういう苦労の道を人間にさせるか。こういう摂理のみ旨を率いて行かなければならない神の立場はいかばかりつらいであろうか。神の立場を考えてみた場合、いかにかざいそうな神であろうか。我々、いかに苦労するといっても一生以外にはない。地上生活は一世紀以内の生涯である。
 だから、神に対して、今日一日の励ましのものを授けてあげるのが孝の道であり、忠の道である、ここにおいて、自分ながらの不平、不満を言うものは天宙的に許されない不孝者である。

まあ、御旨のこと以外でも不平不満は多いよね。
でも、特に御旨の道に於いての苦労にはその背後の神の姿、事情、心情を知らなければならない。
それを考えたら、不平不満は不平不満で無くなる。なぜなら、それを通して成長を願われているから。
神の前に立つにふさわしい者となることを願われている神様であるから。

という訳で、またっ!

では〜。

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