2012-10-26

「私自身」(1975/7/13 ニューヨーク ベルベディア)

どもです。
昨日に引き続き、「御旨と世界」からの抜粋です。

神を解放する「私」
ここまで到達するには、反対する逆の道を、突き抜いていかなければならない。だから蕩減の道は、堕落した者には原則として表れてくる。だから、これを克服しなければ、いかれないという教えなのである。それで自分を清算する。個人的問題から、家庭をいかに復帰するか、氏族、国家をいかにするか、世界をいかにするかという、はっきりとした理論体系でもって…。
そうして我々は、人格的神様を信じるだけでなく、心情的神様を論じていくようになった。それは、今までの宗教には見いだせなかったことである。神様は悲しんでいるということが分かった。神様が、拘束されているということを、今まで知らなかった。個人のため解放されなければ、あるいは家庭のため、解放、氏族、民族のため、国家あるいは世界のために解放され、世界的解放がなされるには、我々はその目的に向かって、進まなければならない。
新しい宗教を提供した統一教会。その主体は神である。我々は客体である。主体が喜ばない以上、客体が喜んではなりません。だから神を世界的に開放してこそ、幸福の道ができてくるのです。神解放されてこそ、我々の幸福、家庭的幸福、国家、世界的幸福が生まれてくる。これが統一史観である。だから神を解放しなければなりません。
それを今までの宗教は、やらなかった。神によって我が解放される、こういう宗教、神によってうちの家庭が解放されると、まるっきり反対だ。国家も、神はどうでもよい。我は国家的宗教を信じるだけだ。このような国が解放された?そうじゃないでしょう。間違っている。だから我々は正しいことをしているのだから、世界がいかに反対しても、堂々と行進しなければなりません。だから、我々統一教会はこういう信念でもって、我一身を捧げて、世界を救うというのはもちろんだが、神を解放して、世界を救うという信念でもって、四方八方、命を懸けて進むならば、神はいつまでも共にいます。だから、神様は自分の解放のために努力するんだから、我々を援助せざるをえません。
では統一教会を信じるのは、何のためか。私が救われるためか。私よりは国、国よりは世界を救ってやる。それを救っておけば、自分の国は自然と救われる。こういう思想をもっていたとしたらキリスト教は、あんなに数百という宗派に分かれることがない。世界が救われていない。神が解放されていないのです。だから我々は分かれることができません。
だから西洋人と東洋人とニグロが、一つにならなければ神を解放することができない。だから先生は、神の解放という一点に、生涯をかけてきた。神のほうに心を向けて、神の国に帰る。今まで人間は、民主主義を中心として、人間の自由を主張してきた。人間解放を主張した。それと同じように、今は神の自由、神の解放を願って、天宙を主管し得る神につくり変えなければならない。神様は自由になっているの。人間解放、自由を主張する前に、神様の解放、自由を主張しなければならない。その問題を解決することによって、人間解放はもちろん、人間の自由主義は生まれてくるのだ。
きょうの題である私自身は、この私自身は、神を解放し、世界を解放してやるために、生まれてきたという自覚を持たなければならない。世界を占領、個人的、家庭的、氏族、民族、国家的、いくらでも、つらいつらい戦争を越えても、世界の果てに勝利の旗を見て、神を解放して神の自由を主張して、神がそうだと返事して喜びながら我を迎えてくれる。そういうところまでいかねばならない。そうして神の解放とともに、神の自由世界の基準に立って、君も解放、君も自由だと、共に神と人間が歩調を合わせて、一つになったところに、世界的な解放と、世界的自由の本源があると主張する時が来なければならない。

このあとも続くんですが、それはまた別の機会に。
この部分を読むとただ「神解放」の一点に集中されてこられた文先生で有ることがよく分かります。
神様王権即位式」が2001/1/13に挙行された事により、神様の解放自体は成された訳ですが、それでもやはり自分たちのスタンスは「神様の解放」の一点じゃないかと思います。
『その主体は神である。我々は客体である。主体が喜ばない以上、客体が喜んではなりません。』
神様に喜ばれる我となろう。

では〜。

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