どもです。
2012/12/16の衆院選。
2012/12/17 02:11時点でのNHKでの報道では、
自民:293
民主:56
公明:30
維新:51
共産:8
みんな:18
社民:2
てな感じ。
まあ、テレビの報道で当選した自民の候補者が口々に言っていた
「自民に風が吹いたわけじゃなく、民主にとって大逆風だった」
ってのはその通りでしょうな。
だって、悪く言えば消去法で行ったら自民しか残ってない訳だし。
個人的には、今回の選挙が菅さんや鳩山さんが総理だった時じゃなくってよかったと思いますよ。
もし、その時だったら、もっと負けてたと思う。
維新は…基盤と各候補の知名度がイマイチだったのが災いしたかな〜。
あとは、まあ、マスコミのネガキャンかね。
テレビも新聞も日頃、竹島や尖閣諸島についてあれだけ報道しておきながら、国防軍の文字が出た途端、「戦争反対」に絡めての話し。
でも、それを言うなら代替発電について何のビジョンも無いままに「脱原発」「原発停止」を言うのもおかしいはずなのに、「それが争点」とばかりにその点でどうなのかを問うと言うのはそれこそおかしくは無いだろうか?
投票率は、日経によると59.21%前後らしい前回(2009年)が69.28%。
前回の民主党への期待感から大きかったんだろうけど、目に見える争点が無い上に、「…あーあ。結局、自民かぁ」みたいな半ば諦め感が作用したのかも知れない。
(雨降っていたら、もっと悪かったろうね。)
まあ、何がどうであっても、これで決まりました。
前回の選挙で、変わることを望んで投票した結果については、有権者として期待通りだったのか否かは個人個人で違うと思いますが、少なくとも、
「我々は選択した」
ということを覚えておかなければならないと思います。
でも、不満があればぶつけても良いと思いますよ。
その為の「私たちの代表」としての国会議員なんだから。
P.S.
同日行われた、東京都知事選挙。
おそらくは大方の予想通りの猪瀬直樹氏の圧勝(3,818,268票(得票率:67.6%))ってホントに圧勝すぎる。
副知事としての行動力と実績は都民皆んなが知る所。だから、個人的にも全然心配してませんでした。
てな訳で、衆院選についての感想などなどでした。
では〜。
2012-12-17
2012-12-16
「アメリカに対する神の希望」 (1973/10/21 ワシントン)より
どもです。
今回はクリスマスも近いってことで、「アメリカに対する神の希望」(1973/10/21 ワシントン)からイエス・キリストに関する部分の抜粋をお送りいたします。
マリヤは結婚する前にイエスをはらみました。ユダヤの法律では、そのような女は石打ちの刑によって死ぬ運命にありました。ヨセフはマリヤのことで憤りを感じ、彼女と離婚する適当な時をひそかに待っていたのでした。その時天使がヨセフに現れ、彼にこう言ったのです。「マリヤを妻としてめとりなさい。彼女を責めてはいけません。彼女は神の特別な使命をもっているからです。」もし、ヨセフが全き人でなかったらマリヤは必然的に石打ちによって死に追いやられていたでしょう。
さて、皆さんはヨセフがこのことを両親に向かって、「お父さん、お母さん、私の妻となる人、私の婚約者は妊娠しました。しかし、天使がこれは神の意志によるものであると言いましたから、私は彼女を妻とし、彼女の面倒をみなければなりません。」などと相談できたと考えますか?ヨセフの両親は何と言ったでしょう?この中には年配の御夫婦がおられます。ヨセフの両親の立場になって考えてみてください。ヨセフがそのようなことを言っても信じようとはしないでしょう。ここでヨセフは孤独な決定をしなければならなかったのです。誰にも相談することなく、彼は婚約者をある秘密の場所に連れて行ったのです。
私はヨセフがマリヤに対して大きな疑いを持つような極めて苦しい時を通過したということを確信しています。ヨセフは妻となるべき人にこう聞いたに違いありません。「マリヤ、私たちは心が通じ合っているのだからお互いに秘密は持っていないはずだ。何が本当にあったか私に話してくれるね。お前のおなかの子の本当の父親は誰なのか?」。どんな夫もこのことに関してはとても知りたがるものなのです。しかし、マリヤが夫に対して、「この子供の父親が誰であるのかは私は本当に知らないのです。私は神によって妊娠したからです」と彼女は真実を言ったのです。何人の人が彼女の言葉を信ずることができるでしょう。
今、信ずることはより簡単です。私たちはイエスが誰であるかを知っているからです。しかし、これはイエスが生まれてからの問題ではありませんでした。それ以前の問題なのです。
ですから、ヨセフは確実に疑いをもち心に傷ついた心情を持っていたのです。彼は”私の妻は真実をいっていない”と考えました。このような状態から、彼が生まれる以前からイエスの家庭には感情的な食い違いや動揺があったのです。
こうした事実に良い証の場面があります。ある日、イエスがカナで結婚の祝があった時、そこで母親に会いました。マリヤはイエスに「ブドウ酒がなくなった」と言いました。彼は母親に向かってこう言ったのです。「婦人よ、あなたはわたしとなんの係わりがありますか」(ヨハネ 2.4)重要なことは、彼がお母さんと言わずに「婦人よ」と言ったことです。のちにイエスの弟子の一人が彼の所にやって来て、「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたに会いに来ておられます」と言うのを聞いて「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか。………ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マルコ 3.33 〜 35)と言っています。これは、イエスの目からは、彼の家族が神のみ旨を行なっていないということを示しているのです。
イエスは彼の家族に対して非常に大きな憤りを感じていたのでした。まだ明かされない多くの隠された話があります。彼の怒りの事実の多くがまだ知られていません。聖書はイエスの公生涯前の三十年はほとんど記録されていないのです。もしこれが栄光ある記録でしたら、神やイエスの弟子たちがそれを表したことでしょう。しかし、イエスは嘆きと悲しみのうちに生きたのです。すなわち彼は三十年の目立たない存在であったのです。だから人々は彼が、「私は律法を成就するためにやってきた。モーセは私について書いているのである」と言うのを聞いて、ある日突然、ショックを受けたのです。彼はこう言いました。「私は神の息子であり、天の父が私を送られたのである」「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」。その時代に私たちが生きていたとして、ここにいる何人がそのような途方もない言葉を信じることが出来たでしょう。イエスは人々を困惑させました。彼はそんなにもけたはずれであったのです。洗礼ヨハネでさえ、イエスを神の息子として見ることは難しかったのです。そしてヨハネは人々の心を準備させ、主の道をまっすぐにするため来るはずでした。
今日、イエス・キリストを神の息子として受け入れることは非常に簡単なことです。なぜなら二000年の間、キリスト教は彼を神としてたたえてきたからです。しかし、その当時は年上の者たちは彼を受け入れず、また祭司たちも彼を受け入れなかったのです。彼らは、今日の我々に勝るとも劣らないほどインテリでありました。事実、我々がもしナザレのイエスの時代に生きていたら、多分彼ら以上の過ちを犯したかも知れません。彼らは単に、見捨てられた、不敬な、無法な異端者を見たにすぎないのです。彼らは率直に神の息子を見ることができなかったのです。
イエスは、長い間待ち望まれてきました。メシヤは二000年の間、その到来を待たれてきたのであります。しかし彼がついに現れた時、彼を受け入れることができなかったのです、ユダヤ人のその当時の信仰が力なかったのではありません。今日のクリスチャンの信仰に劣らず献身的でありました。しかし、我々は、イエスが関係を持った人たちは意外な売春婦、取税人そして、漁夫たちであったということを知っています。
我々は、ある日若い女が高価な香油をイエスの体に注ぎ、彼女の髪の毛で足を洗った話を知っています。もし、私たちがこれらのことを見たとしたら、皆さんのうちの何人が敬虔にイエスを神の息子として受け入れると言うのでしょうか。
イエスの三年の公生涯は待ち望まれたメシヤの立場からは程遠い叫びでした。誰一人としてキリストの真の使命を理解することができなかったのであります。人々は彼らの地上の基準で、神の息子を罪深い目でもって裁いたのであります。彼らはイエスを自分たちの思うままに取り扱いました。この罪の世界はキリストの清さには決して相いれられません。彼は人々に近づきました。しかし、人々は彼を受け入れなかったのです。
既に申し上げましたように歴史上のすべての聖人、義人はまず第一に完全なる自己否定をし、神に自分を捧げました。神が彼らを呼び集められた時、彼らは自分の家や財産、家族、また国までも捨てました。神は神の闘士を個人的な立場において、また家庭的、民族的、国家的、世界的な立場において必要としました。そしてどの立場においても、神の闘士の資格は常に同じでありました。神はどのような使命が下されてもついていくことのできる、完全なる疲れを知らない信仰者を要求しているのです。神は神のみ旨に完全に服従することを要求しています。
それでは、我々は神のみ旨とは何であるかを調べてみなくてはなりません。なぜ神は人間にそのような困難な時を与えるのでしょう。個人的な救いは確かに、神の側においては重要なことです。神はそれをないがしろにはされません。しかしながらそれが神のなされる仕事の最終的な目的ではないのです。神は世界の救いのために、一つの家庭をその手段として呼ばれました。神は世界の救いを完成するため、人々を呼び集められるのです。神は世界救済の最終的な成就のために、神の闘士として一つの国を必要としています。
イエスの時代の人々はメシヤの到来を切望していました。しかし彼らはイスラエルとして、神の選民として、彼らの国家的栄光のみを考えていました。彼らはイエス・キリストの世界的な使命を理解していませんでした。メシヤを選民に送るのは神の目的でありました。そしてメシヤは選民と一つになるのでした。そして彼らは信仰を持つ戦士となり、世界の救いのために戦い、成就するのです。
ふぅぃーーーー。
実は、この「アメリカに対する神の希望」 の前に「人間に対する神の希望」と言うのもあるんですが、それはまた別の機会に…。
まあ、世間的は「クリスマス = 目出度い」イメージが強いんですが。
その神のひとり子が何故、馬小屋で生まれて、そして、誰からも迫害されながら死んで行かなければならなかったのか、を考えて見てもいいんじゃないでしょうか。
因みに、キリスト教の公式見解では、「十字架上で死ぬことで、この世の罪を贖ってくださった。」と言う事なんですが、これについては文先生はハッキリ「なら生まれた時に死んでいればいいんじゃないか。なぜわざわざ十字架上で死なくても良いだろう」みたいなことを他の御言葉内で語られてますね。
てな訳で、またお会いしましょう。
では〜。
今回はクリスマスも近いってことで、「アメリカに対する神の希望」(1973/10/21 ワシントン)からイエス・キリストに関する部分の抜粋をお送りいたします。
マリヤは結婚する前にイエスをはらみました。ユダヤの法律では、そのような女は石打ちの刑によって死ぬ運命にありました。ヨセフはマリヤのことで憤りを感じ、彼女と離婚する適当な時をひそかに待っていたのでした。その時天使がヨセフに現れ、彼にこう言ったのです。「マリヤを妻としてめとりなさい。彼女を責めてはいけません。彼女は神の特別な使命をもっているからです。」もし、ヨセフが全き人でなかったらマリヤは必然的に石打ちによって死に追いやられていたでしょう。
さて、皆さんはヨセフがこのことを両親に向かって、「お父さん、お母さん、私の妻となる人、私の婚約者は妊娠しました。しかし、天使がこれは神の意志によるものであると言いましたから、私は彼女を妻とし、彼女の面倒をみなければなりません。」などと相談できたと考えますか?ヨセフの両親は何と言ったでしょう?この中には年配の御夫婦がおられます。ヨセフの両親の立場になって考えてみてください。ヨセフがそのようなことを言っても信じようとはしないでしょう。ここでヨセフは孤独な決定をしなければならなかったのです。誰にも相談することなく、彼は婚約者をある秘密の場所に連れて行ったのです。
私はヨセフがマリヤに対して大きな疑いを持つような極めて苦しい時を通過したということを確信しています。ヨセフは妻となるべき人にこう聞いたに違いありません。「マリヤ、私たちは心が通じ合っているのだからお互いに秘密は持っていないはずだ。何が本当にあったか私に話してくれるね。お前のおなかの子の本当の父親は誰なのか?」。どんな夫もこのことに関してはとても知りたがるものなのです。しかし、マリヤが夫に対して、「この子供の父親が誰であるのかは私は本当に知らないのです。私は神によって妊娠したからです」と彼女は真実を言ったのです。何人の人が彼女の言葉を信ずることができるでしょう。
今、信ずることはより簡単です。私たちはイエスが誰であるかを知っているからです。しかし、これはイエスが生まれてからの問題ではありませんでした。それ以前の問題なのです。
ですから、ヨセフは確実に疑いをもち心に傷ついた心情を持っていたのです。彼は”私の妻は真実をいっていない”と考えました。このような状態から、彼が生まれる以前からイエスの家庭には感情的な食い違いや動揺があったのです。
こうした事実に良い証の場面があります。ある日、イエスがカナで結婚の祝があった時、そこで母親に会いました。マリヤはイエスに「ブドウ酒がなくなった」と言いました。彼は母親に向かってこう言ったのです。「婦人よ、あなたはわたしとなんの係わりがありますか」(ヨハネ 2.4)重要なことは、彼がお母さんと言わずに「婦人よ」と言ったことです。のちにイエスの弟子の一人が彼の所にやって来て、「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたに会いに来ておられます」と言うのを聞いて「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか。………ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マルコ 3.33 〜 35)と言っています。これは、イエスの目からは、彼の家族が神のみ旨を行なっていないということを示しているのです。
イエスは彼の家族に対して非常に大きな憤りを感じていたのでした。まだ明かされない多くの隠された話があります。彼の怒りの事実の多くがまだ知られていません。聖書はイエスの公生涯前の三十年はほとんど記録されていないのです。もしこれが栄光ある記録でしたら、神やイエスの弟子たちがそれを表したことでしょう。しかし、イエスは嘆きと悲しみのうちに生きたのです。すなわち彼は三十年の目立たない存在であったのです。だから人々は彼が、「私は律法を成就するためにやってきた。モーセは私について書いているのである」と言うのを聞いて、ある日突然、ショックを受けたのです。彼はこう言いました。「私は神の息子であり、天の父が私を送られたのである」「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」。その時代に私たちが生きていたとして、ここにいる何人がそのような途方もない言葉を信じることが出来たでしょう。イエスは人々を困惑させました。彼はそんなにもけたはずれであったのです。洗礼ヨハネでさえ、イエスを神の息子として見ることは難しかったのです。そしてヨハネは人々の心を準備させ、主の道をまっすぐにするため来るはずでした。
今日、イエス・キリストを神の息子として受け入れることは非常に簡単なことです。なぜなら二000年の間、キリスト教は彼を神としてたたえてきたからです。しかし、その当時は年上の者たちは彼を受け入れず、また祭司たちも彼を受け入れなかったのです。彼らは、今日の我々に勝るとも劣らないほどインテリでありました。事実、我々がもしナザレのイエスの時代に生きていたら、多分彼ら以上の過ちを犯したかも知れません。彼らは単に、見捨てられた、不敬な、無法な異端者を見たにすぎないのです。彼らは率直に神の息子を見ることができなかったのです。
イエスは、長い間待ち望まれてきました。メシヤは二000年の間、その到来を待たれてきたのであります。しかし彼がついに現れた時、彼を受け入れることができなかったのです、ユダヤ人のその当時の信仰が力なかったのではありません。今日のクリスチャンの信仰に劣らず献身的でありました。しかし、我々は、イエスが関係を持った人たちは意外な売春婦、取税人そして、漁夫たちであったということを知っています。
我々は、ある日若い女が高価な香油をイエスの体に注ぎ、彼女の髪の毛で足を洗った話を知っています。もし、私たちがこれらのことを見たとしたら、皆さんのうちの何人が敬虔にイエスを神の息子として受け入れると言うのでしょうか。
イエスの三年の公生涯は待ち望まれたメシヤの立場からは程遠い叫びでした。誰一人としてキリストの真の使命を理解することができなかったのであります。人々は彼らの地上の基準で、神の息子を罪深い目でもって裁いたのであります。彼らはイエスを自分たちの思うままに取り扱いました。この罪の世界はキリストの清さには決して相いれられません。彼は人々に近づきました。しかし、人々は彼を受け入れなかったのです。
既に申し上げましたように歴史上のすべての聖人、義人はまず第一に完全なる自己否定をし、神に自分を捧げました。神が彼らを呼び集められた時、彼らは自分の家や財産、家族、また国までも捨てました。神は神の闘士を個人的な立場において、また家庭的、民族的、国家的、世界的な立場において必要としました。そしてどの立場においても、神の闘士の資格は常に同じでありました。神はどのような使命が下されてもついていくことのできる、完全なる疲れを知らない信仰者を要求しているのです。神は神のみ旨に完全に服従することを要求しています。
それでは、我々は神のみ旨とは何であるかを調べてみなくてはなりません。なぜ神は人間にそのような困難な時を与えるのでしょう。個人的な救いは確かに、神の側においては重要なことです。神はそれをないがしろにはされません。しかしながらそれが神のなされる仕事の最終的な目的ではないのです。神は世界の救いのために、一つの家庭をその手段として呼ばれました。神は世界の救いを完成するため、人々を呼び集められるのです。神は世界救済の最終的な成就のために、神の闘士として一つの国を必要としています。
イエスの時代の人々はメシヤの到来を切望していました。しかし彼らはイスラエルとして、神の選民として、彼らの国家的栄光のみを考えていました。彼らはイエス・キリストの世界的な使命を理解していませんでした。メシヤを選民に送るのは神の目的でありました。そしてメシヤは選民と一つになるのでした。そして彼らは信仰を持つ戦士となり、世界の救いのために戦い、成就するのです。
ふぅぃーーーー。
実は、この「アメリカに対する神の希望」 の前に「人間に対する神の希望」と言うのもあるんですが、それはまた別の機会に…。
まあ、世間的は「クリスマス = 目出度い」イメージが強いんですが。
その神のひとり子が何故、馬小屋で生まれて、そして、誰からも迫害されながら死んで行かなければならなかったのか、を考えて見てもいいんじゃないでしょうか。
因みに、キリスト教の公式見解では、「十字架上で死ぬことで、この世の罪を贖ってくださった。」と言う事なんですが、これについては文先生はハッキリ「なら生まれた時に死んでいればいいんじゃないか。なぜわざわざ十字架上で死なくても良いだろう」みたいなことを他の御言葉内で語られてますね。
てな訳で、またお会いしましょう。
では〜。
2012-12-04
「一心不乱 一生懸命」 (1973/07/08 東京)
どもです。
久しぶりの御言葉です。今回は、1973年に東京教会での御言葉「一心不乱 一生懸命」です。
訓練が必要である。でたらめな訓練ではない。計画的であり、科学的であり、理論的であり、実践的な計画の訓練が必要である。
先生が好きなのは、「一心不乱 一生懸命」である。一生懸命、一心不乱に目的に向かって進んだ場合にはどうなるであろう。だから、実践の現場を迎え合った全世界の宗教のうちで、何が宗教界を代表したダビデの任務を果たし得るや。こう考えてみた場合に、いくら考えてみても統一食口以外にないということを、先生はようやく結論するに至りました。もしも神様がいたとするならば、それは先生が考えたそれを、認めざるを得ないでありましょう。
先生においては、残してきた子供たちから手紙が来る。思いがあったら、わざと切ってしまう。それで今回帰って来る飛行機の中で、初めて済まない心情を清算してきた。七ヶ月と二十日近いこの期間すまなかった。しかし、仕方ない。子供たちに対していろいろな手紙を、お母様が涙しながら出す時、先生は、「その涙は神に対してで、子供のために流してはいけない」と何回も言っている。会いたいことはお母様も先生も同じ思いである。だからできるだけ写真も見なかった。真を尽くさなければならない。
先生が言ったことを君たちがやってくれると思ったのに、半年たって、この間の報告を聞いてがっかりした。これではいけない。作戦を変えなければならないし、方向を転換しなければならない緊急事態に入った。再び決意を固めなければならない。目的に向かって突進するような道を満たさなければ日本は危ないのである。先生が言ったとおりの情勢になった。アジア情勢になった。時間がたつごとに、遅くなってしまう。だから準備をなさない者には勝利は得られないじゃないか。準備をなすために七二年から七三、七四年までに五万人以上の基準を必ず突破しなければならない。
先生は皆さんに負けない。今も闘っている。先生は今、四十年の闘いの路程を歩んでいる。先生は三十代まで準備時代、四十代まで実践時代、六十までに完成したいと、ちゃんと原理的に組んでいる。一九七七年から一九七八年まで、アメリカに影響する最高の絶頂期と決めている。一人でも行く。君たちが休んでも行く。援助しなくても行く。
今まで一月に一人伝道してきた者、手を挙げて。−−−−一人もいない。失敗だよ。摂理は人が滅びても、国が滅びても、摂理は残さなければならない。残すために今まで神は働きかけている。一点の家庭基準を、氏族基準を我々は抱えて、先生がそれを保って働きかけている。真剣な問題である。だから一時間が惜しい。この一時間を努力しなかったならば、数千年が飛んでしまう悲惨な運命が生まれてくる。この一時間、この一瞬が危機に瀬している。
涙ながらに神の摂理に近寄って、神の悲惨なその姿を思ってみた場合に、我々に対して信頼できない神の立場はどんなものであろうか。統一教会が信頼できなかったら、神は救いを受けることができない。もうおしまいである。それを君たちがいいかげんに考えて、こうでもいいし、ああでもいいと適当なやり方をこれを妨げることがあったとしたら先生は相手にしない。黙っていればいかにたやすいことだろう。しかし、そうはいかない。果たすべき使命を残している以上は、それを果たすために、嫌と言っても、転んでしまっても、落ちてしまっても仕方がない。正義に立って、正当なことを教えて、命令するのが善の指導者であって、天的指導者としての使命だから仕方がない。
原理には三大裁きがある。真理、人格、心情において裁く。堕落は三大要件を犯したんだから。先生は成して、あんたたちに教えているんだよ。復帰の道は成して教えるべきであって、成さないで教えるべきであったら、聖書は六〇〇〇年前にもう既にやってきているよ。なぜか?原則がある。父母の信仰が立たないから、父母が先に知らなかったから、知るのも父母が先に知らなければならない。父母が先に実行できなかったから、実行するのも父母が先に実行してからこそ、知るようになるのが原則である。だから、原理は先生から、もう成した基準に立っていないと教えられない。
だから、あなたたちは、原理をパスしなければならない。原理をパスして、原理基準に引っかからないような自分となって、それから実体者となって、原理に適用される。しかし、蕩減原則に適用されるそういう者があった場合には、実体復帰はなされません。そういう条件が残った場合には、サタンがいつも私のものだと引っ張っていく。だから実体基準を勝利するには、サタンを正面的に抱えてやれ。
と言う訳ですが、まあ、冒頭の「世界的に恐ろしい軍隊があるとしたら、恐ろしいほど訓練された軍隊である。」には初めて読んだ人は度肝を抜かすんじゃないかと思います。
この後に「5万人云々」とあるように、この時は摂理的に非常に重要な時期だったようです、この期間の5万人伝道勝利が成されていれば、日本のみならず世界的に摂理が進んだんはずだという事は、この中で先生が「がっかりした」という部分で分かると思います。
翻って、来年に紀元節を控えている我々の状況は、この時と同じなんじゃないかとキーを打ちながら思いました。そして、この時は、まだ猶予がありましたが、今の状況は”待ったなし”。大変です。
しかし、「三十代まで準備時代、四十代まで実践時代、六十までに完成したいと…」を読むと、今年聖和させてしまった我々の責任はやっぱり重いと思わざるを得ません。
はぁ。
がんばりまっしょい!
では〜。
久しぶりの御言葉です。今回は、1973年に東京教会での御言葉「一心不乱 一生懸命」です。
日本が危ない
世界的に恐ろしい軍隊があるとしたら、恐ろしいほど訓練された軍隊である。素晴らしい軍隊があるとしたら、素晴らしいほど訓練された軍隊である。それ以外にはない。例外はない。実践には例外がない。奇跡ということは例外の例外であって、それは、一時あった場合には千年の穴があく。我々はそれを知っている。訓練が必要である。でたらめな訓練ではない。計画的であり、科学的であり、理論的であり、実践的な計画の訓練が必要である。
先生が好きなのは、「一心不乱 一生懸命」である。一生懸命、一心不乱に目的に向かって進んだ場合にはどうなるであろう。だから、実践の現場を迎え合った全世界の宗教のうちで、何が宗教界を代表したダビデの任務を果たし得るや。こう考えてみた場合に、いくら考えてみても統一食口以外にないということを、先生はようやく結論するに至りました。もしも神様がいたとするならば、それは先生が考えたそれを、認めざるを得ないでありましょう。
先生においては、残してきた子供たちから手紙が来る。思いがあったら、わざと切ってしまう。それで今回帰って来る飛行機の中で、初めて済まない心情を清算してきた。七ヶ月と二十日近いこの期間すまなかった。しかし、仕方ない。子供たちに対していろいろな手紙を、お母様が涙しながら出す時、先生は、「その涙は神に対してで、子供のために流してはいけない」と何回も言っている。会いたいことはお母様も先生も同じ思いである。だからできるだけ写真も見なかった。真を尽くさなければならない。
先生が言ったことを君たちがやってくれると思ったのに、半年たって、この間の報告を聞いてがっかりした。これではいけない。作戦を変えなければならないし、方向を転換しなければならない緊急事態に入った。再び決意を固めなければならない。目的に向かって突進するような道を満たさなければ日本は危ないのである。先生が言ったとおりの情勢になった。アジア情勢になった。時間がたつごとに、遅くなってしまう。だから準備をなさない者には勝利は得られないじゃないか。準備をなすために七二年から七三、七四年までに五万人以上の基準を必ず突破しなければならない。
先生は皆さんに負けない。今も闘っている。先生は今、四十年の闘いの路程を歩んでいる。先生は三十代まで準備時代、四十代まで実践時代、六十までに完成したいと、ちゃんと原理的に組んでいる。一九七七年から一九七八年まで、アメリカに影響する最高の絶頂期と決めている。一人でも行く。君たちが休んでも行く。援助しなくても行く。
今まで一月に一人伝道してきた者、手を挙げて。−−−−一人もいない。失敗だよ。摂理は人が滅びても、国が滅びても、摂理は残さなければならない。残すために今まで神は働きかけている。一点の家庭基準を、氏族基準を我々は抱えて、先生がそれを保って働きかけている。真剣な問題である。だから一時間が惜しい。この一時間を努力しなかったならば、数千年が飛んでしまう悲惨な運命が生まれてくる。この一時間、この一瞬が危機に瀬している。
涙ながらに神の摂理に近寄って、神の悲惨なその姿を思ってみた場合に、我々に対して信頼できない神の立場はどんなものであろうか。統一教会が信頼できなかったら、神は救いを受けることができない。もうおしまいである。それを君たちがいいかげんに考えて、こうでもいいし、ああでもいいと適当なやり方をこれを妨げることがあったとしたら先生は相手にしない。黙っていればいかにたやすいことだろう。しかし、そうはいかない。果たすべき使命を残している以上は、それを果たすために、嫌と言っても、転んでしまっても、落ちてしまっても仕方がない。正義に立って、正当なことを教えて、命令するのが善の指導者であって、天的指導者としての使命だから仕方がない。
先生は二時間しか休まない
先生はアメリカで平均二時間しか眠らなかった。十二時にみんなを寝かして、それから三時半、四時半まで勉強した。時間がないから寝ない。疲れる暇がない。七年間は寝なかった。みんなは何時間寝るのだ?六時間寝るのだったら、そのうちの二時間は先生にのために費やせ。神のために費やせ。神はそういうところに近づいてくる。余った余分な力でやっても何の効果もありません。誰でもそれはやる。何の条件にもならない。だからこれからは実力と実行力をもたない指導者は消えていくよ。邪魔になる。原理には三大裁きがある。真理、人格、心情において裁く。堕落は三大要件を犯したんだから。先生は成して、あんたたちに教えているんだよ。復帰の道は成して教えるべきであって、成さないで教えるべきであったら、聖書は六〇〇〇年前にもう既にやってきているよ。なぜか?原則がある。父母の信仰が立たないから、父母が先に知らなかったから、知るのも父母が先に知らなければならない。父母が先に実行できなかったから、実行するのも父母が先に実行してからこそ、知るようになるのが原則である。だから、原理は先生から、もう成した基準に立っていないと教えられない。
だから、あなたたちは、原理をパスしなければならない。原理をパスして、原理基準に引っかからないような自分となって、それから実体者となって、原理に適用される。しかし、蕩減原則に適用されるそういう者があった場合には、実体復帰はなされません。そういう条件が残った場合には、サタンがいつも私のものだと引っ張っていく。だから実体基準を勝利するには、サタンを正面的に抱えてやれ。
と言う訳ですが、まあ、冒頭の「世界的に恐ろしい軍隊があるとしたら、恐ろしいほど訓練された軍隊である。」には初めて読んだ人は度肝を抜かすんじゃないかと思います。
この後に「5万人云々」とあるように、この時は摂理的に非常に重要な時期だったようです、この期間の5万人伝道勝利が成されていれば、日本のみならず世界的に摂理が進んだんはずだという事は、この中で先生が「がっかりした」という部分で分かると思います。
翻って、来年に紀元節を控えている我々の状況は、この時と同じなんじゃないかとキーを打ちながら思いました。そして、この時は、まだ猶予がありましたが、今の状況は”待ったなし”。大変です。
しかし、「三十代まで準備時代、四十代まで実践時代、六十までに完成したいと…」を読むと、今年聖和させてしまった我々の責任はやっぱり重いと思わざるを得ません。
はぁ。
がんばりまっしょい!
では〜。
2012-11-23
小ネタ
どもです。
今日は小ネタをばいくつか。
と言うのも、雑木林には雑木林の、原っぱには原っぱの生態環境と言うか動植物相と言うものがあると思うんです。
雑木林は保全するけど、原っぱは保全せずにどんどん宅地や駐車場のようになっていくと、いずれそういう所に居るはずの昆虫類などが居なくなる…なんてことになりゃしないかと思ったりしてるんです。
どうにかしません? > 自治体の首長様
現状見てあえて民主党に入れようと言う方は、少なくとも無党派層の方で居るとは思えないのですが、でもじゃあ、自民党が手放しで良いのか?と言う疑問は尽きませんね。
所謂、第三極と言われている維新の会もどうなんだろうね?
まあ、マスコミの保守派叩きは今に始まったことじゃないんだけど、「選挙」が見えてきた時期から叩きが始まっていたのは知っている人は知っている。
今は、幸か不幸かネットのおかげで、色んな論旨(素人考えの部分もあるかもしれないけど)が直接目にする事が出来て判断材料が多種多様に成って来ている…が、それに振り回されないように、個人のポリシーをしっかりともたなきゃいけない時代でもあるのかな。
…まとまんなかった (ーー;
【悲報】色々考えた結果。willcomのAndroidスマフォであるDIGNO DUALにはしないことを決定しましたーーーーーーーーー。
いやぁ、ホントにどうしようかと思ったんです。Willcomとは長い付き合いだし、今の料金体系が分り易くて、安くてとても良いんですが、 DIGNOの料金プランであるプランDってのが何というか……ボッタクリ?
みたいな感じでねぇ。
DIGNOのネット接続はソフトバンクの回線を使って居るんですがコイツの料金(3Gパケット定)が5,460円と言う金額がどうしても納得できんのです。
で、そもそもの自分の使いたい事ってなんだろうと考えてみると、ネット接続しか無いんですね。
じゃあ、だったら「タブレット端末」+「Wi-Fiルータ」でもいいんじゃないかと思った次第。
(ここは、チョット技術的なことなので勘弁な)
最近、ABAPで開発してる時にSELECTのHELPを見たんですが、そこに "PACKAGE SIZE"なるものを発見。なんじゃこりゃと見てみれば、
『... INTO CORRESPONDING FIELDS OF wa と同様ですが 、1行ずつ内部テーブル itabに割当てられるのではなく、一度の操作 で作業領域に割当てられます。』
という記述。
しかも、
『 処理のループはなく、 ENDSELECT 命令もありません。 』
???
つまり、1回のSELECTで任意の行数を取得でき…る…?
んんんん。
えと、つまり、
「条件対象のデータ Top n を取得する」
でいいのかな?
例えば、
ううーーーん。使いドコロが限定的すぐる。( ̄0 ̄;)
ところで、そのABAPなんですが、皆さんSORTってどうしてます?
まあ、普通は、
ってしてると思います。
でも、例えば、使う際にはsort Tableの方の方が都合がいい。
ってばあい。sort tableを定義しておいて、そいつにコピーするって方法が楽ちん。
こうね。
注意点は、SORT Table定義の的に"NON-UNIQ" にしておくこと、予めキー項目が重複しないことが担保出来なければ、コピーした瞬間にABENDします。(<経験者)
まあ、これやってる人も多いと思うんですけどね。テヘ 。
えと、なんかまとまり悪くってすんませんな。
まあ、小ネタって事で。
あと、御言葉の方も止めた訳じゃないので、またやりますね。
て、事でーーーー。
では〜。
今日は小ネタをばいくつか。
その1
所謂、緑地と言うか、緑化保全の為に雑木林なんかを保全/整備している自治体は多いと思います。かく言う相模原も「木漏れ日の森」として整備してるんですが、原っぱって保全しなくてもいいんでしょうかね。と言うのも、雑木林には雑木林の、原っぱには原っぱの生態環境と言うか動植物相と言うものがあると思うんです。
雑木林は保全するけど、原っぱは保全せずにどんどん宅地や駐車場のようになっていくと、いずれそういう所に居るはずの昆虫類などが居なくなる…なんてことになりゃしないかと思ったりしてるんです。
どうにかしません? > 自治体の首長様
その2
とうとう、と言うかやっとと言うべきか、解散/総選挙となりました。現状見てあえて民主党に入れようと言う方は、少なくとも無党派層の方で居るとは思えないのですが、でもじゃあ、自民党が手放しで良いのか?と言う疑問は尽きませんね。
所謂、第三極と言われている維新の会もどうなんだろうね?
まあ、マスコミの保守派叩きは今に始まったことじゃないんだけど、「選挙」が見えてきた時期から叩きが始まっていたのは知っている人は知っている。
今は、幸か不幸かネットのおかげで、色んな論旨(素人考えの部分もあるかもしれないけど)が直接目にする事が出来て判断材料が多種多様に成って来ている…が、それに振り回されないように、個人のポリシーをしっかりともたなきゃいけない時代でもあるのかな。
…まとまんなかった (ーー;
その3
【悲報】色々考えた結果。willcomのAndroidスマフォであるDIGNO DUALにはしないことを決定しましたーーーーーーーーー。
いやぁ、ホントにどうしようかと思ったんです。Willcomとは長い付き合いだし、今の料金体系が分り易くて、安くてとても良いんですが、 DIGNOの料金プランであるプランDってのが何というか……ボッタクリ?
みたいな感じでねぇ。
DIGNOのネット接続はソフトバンクの回線を使って居るんですがコイツの料金(3Gパケット定)が5,460円と言う金額がどうしても納得できんのです。
で、そもそもの自分の使いたい事ってなんだろうと考えてみると、ネット接続しか無いんですね。
じゃあ、だったら「タブレット端末」+「Wi-Fiルータ」でもいいんじゃないかと思った次第。
その4
(ここは、チョット技術的なことなので勘弁な)
最近、ABAPで開発してる時にSELECTのHELPを見たんですが、そこに "PACKAGE SIZE"なるものを発見。なんじゃこりゃと見てみれば、
『... INTO CORRESPONDING FIELDS OF wa と同様ですが 、1行ずつ内部テーブル itabに割当てられるのではなく、一度の操作 で作業領域に割当てられます。』
という記述。
しかも、
『 処理のループはなく、 ENDSELECT 命令もありません。 』
???
つまり、1回のSELECTで任意の行数を取得でき…る…?
んんんん。
えと、つまり、
「条件対象のデータ Top n を取得する」
でいいのかな?
例えば、
select *て、書いていた所を
into rec_a
from table_a
where key_a = 'X'.
if sy-dbcnt > 10.
exit.
endif.
endselect.
select *の1文で書けるって事かな?
into rec_a
package size 10
from table_a
where key_a = 'X'.
ううーーーん。使いドコロが限定的すぐる。( ̄0 ̄;)
その5
ところで、そのABAPなんですが、皆さんSORTってどうしてます?
まあ、普通は、
sort intabe by a ascending.
ってしてると思います。
でも、例えば、使う際にはsort Tableの方の方が都合がいい。
ってばあい。sort tableを定義しておいて、そいつにコピーするって方法が楽ちん。
こうね。
DATA:これだと、事前にSORTする必要もないから楽。
tb_a type standard table of strc_a,
tb_b type sort table of strc_a
with non-uniq key itm_a.
tb_b[] = tb_a[].
注意点は、SORT Table定義の的に"NON-UNIQ" にしておくこと、予めキー項目が重複しないことが担保出来なければ、コピーした瞬間にABENDします。(<経験者)
まあ、これやってる人も多いと思うんですけどね。テヘ 。
えと、なんかまとまり悪くってすんませんな。
まあ、小ネタって事で。
あと、御言葉の方も止めた訳じゃないので、またやりますね。
て、事でーーーー。
では〜。
2012-11-15
「復帰の山頂」(1969/07/27)
どもです。
またチョット開いちゃいましたが、やります。
今回の御言葉は、「復帰の山頂」(1969/07/27 韓国 『御言葉選集 第二十四巻』)からの抜粋です。
全文は、Today's World Japan 2011(No.511)に載ってます。
イエス様もイスラエル民族を前に、世界の復帰という峠を越えるその瞬間に、ゲツセマネの園で寂しく血の汗を流しながら「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイによる福音書 二十六章39節)と三回も同じように祈られたのです。ここで皆さんは、この「父のみ旨と私のみ旨」というものが、いつも勝敗を決定した歴史的な分岐点であることを知らなければなりません。
このように見るとき、復帰の山頂を越えるには、私のみ旨と父のみ旨、私が行く道と父が行かれる道、お父さんの観点と私が見詰める観点、父の歩調と私が歩いて行く歩みのようすがいつも一致しなければなりません。それでこそ万事が一致しうるのです。そうでなくては、その峠を越えたとしても、成功できないのです。そして、その峠を越えていくには、一人で越えてはなりません。必ず神様と一緒に越えて行かなければなりません。
どうしてでしょうか?私たちはエデンの園を復帰して地上に天国を建設しようとおう目標をもって進みますが、その天国を建設するにおいては私たち人間だけではできません。創造原理によれば、天国は人間だけでは成すことができません。あくまでも神様と合流してこそ、天国を成すことができるのです。これが創造原則なので、今日、私たちがその峠を越えても、一人で越えてはいけないというのです。
皆さんは難しい峠にぶつかればぶつかるほど、いつもその困難を勝ち抜くことのできる一致点をもたなければなりません。いよいよその山頂に近ければ近いほど、その生死の交差路で皆さんは神様と接することのできる一つの一致点を準備しなければならないというのです。その一致点を準備するにおいては、神様が私たちにただ自動的に準備してくださるのではなく、皆さん自身がそこに歩調を合わせ、そこに一致団結しなければならないのです。
ゆえに、皆さんはそこに自分の実体をいかに注入させるかという問題を中心として、努力しなければなりません。このような基点を、どうせあるひと時には準備しなければなりません。統一教会自体でも、あるひと時にはそうなることを願っているのです。
民族復帰というこの厳粛な課題を前に、私たちはいままで闘争してきましたが、今日、それが終盤戦に入ったかと言えば、まだ、入ることができていないというのです。ゆえに、今もある山頂に向かって進み続けているのです。あるひと時に、必ずその最期の基点を迎えるべき時間が来るでしょう。その時間が私たちの前に、焦燥するかのように近づいています。
では、これに対して私たち自らは、どうすべきでしょうか?
それ以上に切迫し、それ以上に焦燥する立場で、それを克服しうる信念が確固としていなければなりません。その確固たる信念を中心として、過去、現在、未来に通じることができ、そこに心情的な内容を備え、その峠を私が十分に克服して越えられるといえる立場に立たなければなりません。そうでなければその峠を越えることができないのです。それほどこの峠を越えることが難しいということを、皆さんは知らなければなりません。
ふうぅ。濃イイですね。
まあ、見出しの「いかに神様と一つになって越えるかが重要だ」がすべてを語っているといっても過言じゃないですね、結局は、中心との一致点をいかにして見出して、維持していくかと言う事でしょうか。
個人的には、
『民族復帰というこの厳粛な課題を前に』
から始まる、最後までの部分。特に
『あるひと時に、必ずその最期の基点を迎えるべき時間が来るでしょう。その時間が私たちの前に、焦燥するかのように近づいています。』
の一文はお父様が聖和された今となっては、すごく意味深く感じます。
そしてそれは自分たちにも当てはまるわけで、その時をいかにして迎えるのか…。
その為にも
『神様と接することのできる一つの一致点を準備しなければならないというのです。』
と言う事なのじゃないかなと思います。
という訳で、
では〜
またチョット開いちゃいましたが、やります。
今回の御言葉は、「復帰の山頂」(1969/07/27 韓国 『御言葉選集 第二十四巻』)からの抜粋です。
全文は、Today's World Japan 2011(No.511)に載ってます。
いかに神様と一つになって越えるかが重要だ
ところで、この山頂を越えるにおいては、誰かが後援し、誰かがそこに協力してくれて行ける道かと言えば、そうではないというのです。もちろん、ある指導者がいて、彼が指導するとおりに行けばよいかもしれませんが、ついて行っても、その道が、その峠というものが、そのように簡単に行くようにはなっていないというのです。ついて行く立場に立っても、最後の峠を越えなければならないからには、指導者が指示する事項、あるいはその方向に行動の一致点を備えなくては、この道を行くことができないというのです。このとてつもない復帰の山頂を、私たちが越えなければならないという事実を、皆さんは知らなければなりません。イエス様もイスラエル民族を前に、世界の復帰という峠を越えるその瞬間に、ゲツセマネの園で寂しく血の汗を流しながら「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイによる福音書 二十六章39節)と三回も同じように祈られたのです。ここで皆さんは、この「父のみ旨と私のみ旨」というものが、いつも勝敗を決定した歴史的な分岐点であることを知らなければなりません。
このように見るとき、復帰の山頂を越えるには、私のみ旨と父のみ旨、私が行く道と父が行かれる道、お父さんの観点と私が見詰める観点、父の歩調と私が歩いて行く歩みのようすがいつも一致しなければなりません。それでこそ万事が一致しうるのです。そうでなくては、その峠を越えたとしても、成功できないのです。そして、その峠を越えていくには、一人で越えてはなりません。必ず神様と一緒に越えて行かなければなりません。
どうしてでしょうか?私たちはエデンの園を復帰して地上に天国を建設しようとおう目標をもって進みますが、その天国を建設するにおいては私たち人間だけではできません。創造原理によれば、天国は人間だけでは成すことができません。あくまでも神様と合流してこそ、天国を成すことができるのです。これが創造原則なので、今日、私たちがその峠を越えても、一人で越えてはいけないというのです。
皆さんは難しい峠にぶつかればぶつかるほど、いつもその困難を勝ち抜くことのできる一致点をもたなければなりません。いよいよその山頂に近ければ近いほど、その生死の交差路で皆さんは神様と接することのできる一つの一致点を準備しなければならないというのです。その一致点を準備するにおいては、神様が私たちにただ自動的に準備してくださるのではなく、皆さん自身がそこに歩調を合わせ、そこに一致団結しなければならないのです。
ゆえに、皆さんはそこに自分の実体をいかに注入させるかという問題を中心として、努力しなければなりません。このような基点を、どうせあるひと時には準備しなければなりません。統一教会自体でも、あるひと時にはそうなることを願っているのです。
民族復帰というこの厳粛な課題を前に、私たちはいままで闘争してきましたが、今日、それが終盤戦に入ったかと言えば、まだ、入ることができていないというのです。ゆえに、今もある山頂に向かって進み続けているのです。あるひと時に、必ずその最期の基点を迎えるべき時間が来るでしょう。その時間が私たちの前に、焦燥するかのように近づいています。
では、これに対して私たち自らは、どうすべきでしょうか?
それ以上に切迫し、それ以上に焦燥する立場で、それを克服しうる信念が確固としていなければなりません。その確固たる信念を中心として、過去、現在、未来に通じることができ、そこに心情的な内容を備え、その峠を私が十分に克服して越えられるといえる立場に立たなければなりません。そうでなければその峠を越えることができないのです。それほどこの峠を越えることが難しいということを、皆さんは知らなければなりません。
ふうぅ。濃イイですね。
まあ、見出しの「いかに神様と一つになって越えるかが重要だ」がすべてを語っているといっても過言じゃないですね、結局は、中心との一致点をいかにして見出して、維持していくかと言う事でしょうか。
個人的には、
『民族復帰というこの厳粛な課題を前に』
から始まる、最後までの部分。特に
『あるひと時に、必ずその最期の基点を迎えるべき時間が来るでしょう。その時間が私たちの前に、焦燥するかのように近づいています。』
の一文はお父様が聖和された今となっては、すごく意味深く感じます。
そしてそれは自分たちにも当てはまるわけで、その時をいかにして迎えるのか…。
その為にも
『神様と接することのできる一つの一致点を準備しなければならないというのです。』
と言う事なのじゃないかなと思います。
という訳で、
では〜
2012-11-09
Ubuntu 12.10 で(おそらく)一番良かったこと
どもです。
Ubuntu 12.10(Quantal Quetzal) が無事リリースされました。
UnityベースのUIも随分慣れっこになっちゃいましたが、皆さんはどうですか?
今回のVersion Upで個人的に一番良かったのが「USB Deviceの安全な取り外し」がちゃんと動くようになった事。
この辺のことは、前に『USB接続したDriveの「安全な取り外し」』に書きましたが、権限関係で上手く動いてくれてなかったんですが、
今回のVersion Upで…ちゃんと動くようになりましたぁ。
Nautilus上はこんな感じ
で、今までは右側の三角の”Eject”ボタンを押すと、「権限ないからUnmountできません」って言われていたんですが、
今回のVersion Upでは、こう!
ちゃんと聞いてきてくれてます。
チョットメンドイ感じはやはり有るんですが、出来ないよりはずっといいです。
てなわけで、今回は小ネタでした。
み言葉の方もまたやりますのでよろしく。
では〜。
Ubuntu 12.10(Quantal Quetzal) が無事リリースされました。
UnityベースのUIも随分慣れっこになっちゃいましたが、皆さんはどうですか?
今回のVersion Upで個人的に一番良かったのが「USB Deviceの安全な取り外し」がちゃんと動くようになった事。
この辺のことは、前に『USB接続したDriveの「安全な取り外し」』に書きましたが、権限関係で上手く動いてくれてなかったんですが、
今回のVersion Upで…ちゃんと動くようになりましたぁ。
Nautilus上はこんな感じ
で、今までは右側の三角の”Eject”ボタンを押すと、「権限ないからUnmountできません」って言われていたんですが、
今回のVersion Upでは、こう!
ちゃんと聞いてきてくれてます。
チョットメンドイ感じはやはり有るんですが、出来ないよりはずっといいです。
てなわけで、今回は小ネタでした。
み言葉の方もまたやりますのでよろしく。
では〜。
2012-11-06
「祭物の完成」(1971/09/05 韓国) - (2)
どもです。
「祭物の完成」の(2)です。
(1)はこちら。
このように全てを犠牲にした後にはどのようになるのでしょうか?父母もその子供を中心に立てようとするでしょうし、妻もその夫を永遠なる中心に立てようとするでしょうし、子供も「私たちのお母さんとお父さんが世界で最高だ」と言うでしょう。このようになるのです。中心になるのです。
十人の友達の中で、一人の人が犠牲になれば、その人は十人の中で愚かな人のようですが、行けば行くほど彼は十人の中心存在となるのです。自分の出世のために十人の友達を利用すれば、落ちていくのです。落ちていけばなくなるので、滅ぶのです。
ところが、友達のために犠牲になり、自分の生命を捨てようと覚悟した人がいるなら、その十人の友達は全て彼にぴたっとくっつくでしょう。彼が死ぬようなことがあれば、お互いに「私が代わりに死ぬ」と言うでしょう。それだけではなく、友達の周辺の人々までも動員されるのです。このように絡むので、滅びないで興隆するのではないですか?皆さんはこれを確実に知らなければなりません。これは間違いのない事実です。
神様は永遠に滅ぶことのできないおかたなので、永遠に興隆することができる道を捜してこられるのです。これが神様が取ってこられた道であるので、歴史の途上で保守戦をしています。攻撃戦ではありません。保守戦をするにおいてては、いつも最初に打たれて最初に犠牲になるのです。犠牲になって、何十倍もの犠牲の代価を捜し出してくるのです。これは祭物と同じです。祭物が犠牲になれば祭物を犠牲にした群れは祭物の前に屈服するようになり、屈服した全体が復帰されるのです。全てそのような恵沢を受けるのです。今、先生はこのようなことをしています。
ですから、個人は家庭のために犠牲になり、家庭は宗族のために犠牲になり、宗族は民族のために犠牲になり、民族は国家のために犠牲になり、国家は世界のために犠牲になりなさいというのです。そうだといって、サタンの国家と世界のために犠牲になりなさいというのではありません。新しい国の理念の望みながら犠牲になれば、悪は屈服するようになっています。悪はなぜ屈服するのですか?悪は、終わりになれば善の前に屈服するようになっています。悪というのは傲慢です。傲慢なので、終わりになれば滅ぶようになるのです。
ソ連のフルシチョフが国連総会で靴を脱いで、それで机をぶん殴って…。それを聞いて、私たち食口を中心に話をしました。「あなたがたは今や下がっていかなければならない。首を切られて下がっていかなければならない。あなたは最後のその行動を通して、この地球上から退かなければならない」と言いました。今や悪は最高の絶頂に達しているので、これ以上、上がることはできません。天が打つのです。ですから、共産党はがらがらと崩れざるをえません。
「天の前に犠牲の道をいけば、けして滅びること無く発展する。」ですね。
先生の一貫した姿勢。だから我々もその如くにならなければならないし、それが我々に願われていることですね。
後天時代を迎えて、「蕩減の歴史」は終わったとは言え、今の何一つ復帰されていない現状ではやはり「犠牲の道」を行くしかないのが我々ですね。
てなわけで、また次回(あるのか?)まで。
では〜。
「祭物の完成」の(2)です。
(1)はこちら。
このように全てを犠牲にした後にはどのようになるのでしょうか?父母もその子供を中心に立てようとするでしょうし、妻もその夫を永遠なる中心に立てようとするでしょうし、子供も「私たちのお母さんとお父さんが世界で最高だ」と言うでしょう。このようになるのです。中心になるのです。
十人の友達の中で、一人の人が犠牲になれば、その人は十人の中で愚かな人のようですが、行けば行くほど彼は十人の中心存在となるのです。自分の出世のために十人の友達を利用すれば、落ちていくのです。落ちていけばなくなるので、滅ぶのです。
ところが、友達のために犠牲になり、自分の生命を捨てようと覚悟した人がいるなら、その十人の友達は全て彼にぴたっとくっつくでしょう。彼が死ぬようなことがあれば、お互いに「私が代わりに死ぬ」と言うでしょう。それだけではなく、友達の周辺の人々までも動員されるのです。このように絡むので、滅びないで興隆するのではないですか?皆さんはこれを確実に知らなければなりません。これは間違いのない事実です。
神様は永遠に滅ぶことのできないおかたなので、永遠に興隆することができる道を捜してこられるのです。これが神様が取ってこられた道であるので、歴史の途上で保守戦をしています。攻撃戦ではありません。保守戦をするにおいてては、いつも最初に打たれて最初に犠牲になるのです。犠牲になって、何十倍もの犠牲の代価を捜し出してくるのです。これは祭物と同じです。祭物が犠牲になれば祭物を犠牲にした群れは祭物の前に屈服するようになり、屈服した全体が復帰されるのです。全てそのような恵沢を受けるのです。今、先生はこのようなことをしています。
ですから、個人は家庭のために犠牲になり、家庭は宗族のために犠牲になり、宗族は民族のために犠牲になり、民族は国家のために犠牲になり、国家は世界のために犠牲になりなさいというのです。そうだといって、サタンの国家と世界のために犠牲になりなさいというのではありません。新しい国の理念の望みながら犠牲になれば、悪は屈服するようになっています。悪はなぜ屈服するのですか?悪は、終わりになれば善の前に屈服するようになっています。悪というのは傲慢です。傲慢なので、終わりになれば滅ぶようになるのです。
ソ連のフルシチョフが国連総会で靴を脱いで、それで机をぶん殴って…。それを聞いて、私たち食口を中心に話をしました。「あなたがたは今や下がっていかなければならない。首を切られて下がっていかなければならない。あなたは最後のその行動を通して、この地球上から退かなければならない」と言いました。今や悪は最高の絶頂に達しているので、これ以上、上がることはできません。天が打つのです。ですから、共産党はがらがらと崩れざるをえません。
「天の前に犠牲の道をいけば、けして滅びること無く発展する。」ですね。
先生の一貫した姿勢。だから我々もその如くにならなければならないし、それが我々に願われていることですね。
後天時代を迎えて、「蕩減の歴史」は終わったとは言え、今の何一つ復帰されていない現状ではやはり「犠牲の道」を行くしかないのが我々ですね。
てなわけで、また次回(あるのか?)まで。
では〜。
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